書籍としてのスリ・タンジュン

Sri Tañjung: Een Oud Javaansch Verhaal

(Pri jono, 1938)

6 / 7
image

6-1. 著者来歴

Sumardiの著作(1984)によると、著者プリヨノ(Prijono)は1907年に中部ジャワのヨグヤカルタで生まれた。父が宮廷官吏(abdi dalem)であったため、プリヨノ家族の社会的地位はプリヤイ(priyayi)と呼ばれる地域社会のエリート階級であった。プリヨノはその特権から、オランダ式の学校教育をうけ、ヨグヤカルタの小学校Hollandsch-Inlandsche Schoolで学んだ後、1929年にスラカルタの中学校(現代の高等学校) Algemeene Middelbare Schoolを卒業した。一方で地元の舞踊学校(Krido Bekso Wiromo)でジャワ舞踊を学び、西洋の学問とジャワの伝統文化を学びながら育った。

卒業後はパリに移り、1932年にフランス語学校(Cours Mayon)を終了した。そして文学への強い関心から、オランダに拠点を移し、ライデン大学の東洋文学研究科に入学し、1938年にスリ・タンジュンの研究論文Sri Tañjung: Een Oud Javaansch Verhaalで博士号を取得した(写真6-1:二列目の左角に立つのがプリヨノ)。なお、プリヨノが留学した1930年代のライデンでは、ジャワでのブディ・ウトモ(Budi Utomo)の民族主義運動の影響から、インドネシア留学生協会(Perhimpoenan Indonesia)、インドネシア芸術推進学生協会(SVIK)、そしてインドネシア学生会 (Roekoen Peladjar Indonesia)などの組織が誕生していた(Stutje 2016: 227)。したがってプリヨノは中世ジャワ文芸の研究でジャワ学の構築に貢献する一方、SVIKの仲間との舞踊を通じたジャワ文化の身体的発信に尽力した。SVIKでの熱心な活動が評価され、1938年に彼は名誉会員の称号を受けた。

1938年に本帰国したプリヨノは、翌年の第二次世界大戦開始、1940年のドイツのオランダ支配という国際情勢の混乱の中、バタヴィア(現在のジャカルタ)で教師として人生を再開する。1938年に教育宗教担当局(Directeur Onderwijs en Eredient)の辞令で宗主国経営の私立学校に採用され、翌年から法律高等学校(RHS: Recht Hooge School)で教鞭を取った後、日本軍政期が始まった1942年に同校の校長に就任する(Sumardi 1984: 12)。インドネシア独立後は、1945年の新内閣発足に伴い、国家公務員に採用された。そしてガジャマダ大学創設メンバーおよび文学部教授からインドネシア大学文学部教授へと、順調に出世した。そのキャリアが認められ、プリヨノは1957年にスカルノ内閣の教育文化省大臣に就任し、1966年まで多くの業績を残した。大臣就任後の1957年に行ったのは、国際表記法(IPA)に基づいたインドネシア語正書法の制定で、これは共同文学者の名前とともにEjaan Prijono-Katoppoと呼ばれている。文学者としても著作物を残し、1954年出版の『〈利益追求ミッション〉など現代の動物ものがたり(M. M. M dan Lain2 Tjeritera Binatang Moderan)』、1964年出版の講演集『インドネシアの教育と文化についての省察(Glimpses of Indonesian Education and Culture)』、同年出版のルーマニア民話集(Kisah-kisah dari Rumania)、1966年出版のジャワ語文芸(Serat Djaksura-Tresnawati Mawi Sekar)がある(全てBalai Pustakaより出版)。また大臣在任時代にはインドネシア芸能の海外公演も数多く実現し、伝統芸能をまとめた著作『インドネシアは踊る(Indonesia Menari/Indonesian Dances)』を1988年に出版した。ただしプリヨノは1966年のスカルノ大統領失脚に伴って大臣解任となり、その3年後の1969年に逝去したため、上記の著作は彼の死後に出版されたものである。こうしてライデンで学んだ文献学と幼い頃から親しんだジャワ芸能に情熱をそそいだプリヨノは、「踊る文人(pudjangga menari)」として生涯を貫いたといえる。


6-1   Prijono in Leiden (Shelfmark: KITLV403229, Title: “Indonesische studenten te Leiden,” published in 1933)


6-2. 書籍の概要

プリヨノのスリ・タンジュン研究論文Sri Tañjung: Een Oud Javaansch Verhaalは、バリ島で発見された貝葉写本(ロンタル/lontar)を扱っている(写真6-2)。この著作は1938年に二つの出版社、すなわちデン・ハーグの Nederlandsche Boek-en Steendrukkerij (1897–1998)とライデンのBurgersdijk & Niermans-Templum Salomonis (1894–) から出版された(写真6-3, 6-4)。最初のページの記載内容から、前者は大学図書館に収蔵するための印刷製本として、後者は一般販売向けの学術書籍として刊行されたと判断できる。目次ページ以降の構成は、以下の通り両者とも同じである。


6-2   貝葉写本ロンタルの一例 (Creative Commons Attribution-Share Alike 4.0)

 


6-3      プリヨノのスリ・タンジュン研究書1

(Burgersdijk & Niermans-Templum Salomonis版)

 

 

6-4       プリヨノのスリ・タンジュン研究書2

(Nederlandsche Boek-en Steendrukkerij版)

 

 

「イントロダクション」(Inleiding): pp. 1+-33+

「テクスト」(Tekst): pp. 1-62

「翻訳」(Vertaling): pp. 63–155

「注釈」(Aanteekeningen): pp. 156–256

「略語リスト」(Lijst der Voornaamste Afkortingen): pp. 257–258

「名称・用語リスト」(Lijst van Eigennamen en Termen): pp. 259–260

「参考文献一覧」(Woordenlijst): pp. 261–273

 

「テクスト」の章ではスリ・タンジュン物語の写本の原文が、次章ではその全文のオランダ語訳が、それぞれ記されている。写本内容は全部で7章(Canto)からなる。各章はいずれも9行からなる節(stanza)から構成され、それぞれの節数は以下の通りである。

Canto I (66 stanzas), Canto II (39 stanzas), Canto III (55 stanzas), Canto IV (12 stanzas), Canto V (188 stanzas), Canto VI (47 stanzas), and Canto VII (86 stanzas)

 


6-3. 要点

この著書に関しては、以下の重要な点があげられる。

①   スリ・タンジュン物語の起源=東ジャワという著者の見解

プリヨノの論考は「イントロダクション」の章ですべて述べられている。このうち、最も社会的影響力をもったのが、この物語の起源を東ジャワと推定した見解であろう。なお、プリヨノはその根拠として、Franz Eppの論文(1849; 1852)とH. N. van der Tuukの論文(1881)を参照している。特にvan der Tuukの影響は大きい。そもそもプリヨノが扱った後述のスリ・タンジュン写本の大部分は、van der Tuukが収集したものである(ライデン大学図書館所蔵)。プリヨノは彼の論文を参考に「スリ・タンジュン物語はスダマラ物語の作者Chiragotraによるその続編である」と述べる。さらに東ジャワのテゴワンギ遺跡のスダマラ壁画に関する考古学者P. V. van Stein Callenfelsの論文(1925)を受け継ぐかたちで、「おそらくこの物語は14世紀半ば以前に生まれ、16世紀から17世紀にかけて流行した」と推察している。こうした一連の関係から、プリヨノの論考は植民地時代のライデンを中心とするジャワ学の枠組みで形成されたとみることができる。

 

②   複数の断片的な写本の編集

スリ・タンジュンの手写本は、バリ島で発見された貝葉写本ロンタルと、東部ジャワのバニュワンギで発見されたアラビア文字の草紙の二種類がある。前者はバリ文字使用の中期ジャワ語、後者はアラビア文字使用の新ジャワ語で記されている。プリヨノの著書は前者を対象とし、後者の研究については後続の研究者(Aminoedin et al. 1986; Indiarti 2022)が発表している。ここで重要なのは、プリヨノは一つのまとまりとしてのバリ島のロンタルを扱ったのではなく、14種類の断片化したロンタルをつなげたという点である(詳細はNozawa 2023を参照)。その意味で、プリヨノはバリ版スリ・タンジュン物語の編集者であったといえよう。

 

③   儀礼歌キドゥンとしてのスリ・タンジュン写本

バリとバニュワンギのスリ・タンジュン写本はいずれも儀礼歌キドゥンとして、特定の韻律形式に即して記されている。プリヨノはバリ島のスリ・タンジュン写本が、以下のウキル(Wukir)と呼ばれる韻律形式で整えられていることを論じている。

 

a. 10u (i); b. 6e (a, o); c. 8i (u); d. 7u; e. 8u; f. 8e (o, a); g. 8u (a); h. 8a; i. 8a

 

これは一節を構成する9つの行(a~i)における音節数と最後の母音を表す。つまり第一行(a)の場合、10の音節数で構成され、最後は母音uで終止する。括弧内の(i)は、例外的な使用母音を表す。第一章の第二節の例は、以下の通りである(下線部が最終母音)。

 

a. Ana carita ginurit kidung (とあるキドゥンの物語)

b. ring rajya sangkane (それは宮廷で生まれ)

c. apupuh kang tambang Wukir (Wukir様式で歌われる)

d. ki Sidapaksa jalu (その男の名はシダパクサ)

e. istrine dewi Sri Tañjung (妻は天女スリ・タンジュン)

f. atutur micara mangke (これは奇跡の物語)

g. baṭari Sri kang winuwus (聖なる女神の言い伝え)

h. tumurun amiṇḍa janma (天から舞い降りた)

i. anggawe pangewan-ewan(人間の姿となって)

 

上記の音節数と最終母音の組み合わせは、特定の節回しで歌うためである。こうした歌と連動した韻律形式はププー(pupuh)と呼ばれ、ジャワとバリの儀礼歌には数多くのププーの種類がある。したがって上記のウキル形式(pupuh Wukir)は、ジャワとバリそれぞれの地域で儀礼歌キドゥンの口承技法の一つとして伝承されている。なお、プリヨノは著書のなかで、バリ島でウキル形式と全く同じ構造のものが、アドリ(pupuh Adri)という名称で伝承されていると記している。

 

④   ローマ字転写と散文体での物語あらすじ

プリヨノの著作を最も特徴づけるのは、本来「詩歌を〈詠む〉ための貝葉写本ロンタル」が、「物語を〈読む〉ための本」に変化した点であるといえる。それはヨーロッパの印刷技術による書籍というメディアの構造がもたらした、文字と身体と思考の新たな関係の誕生でもあった。貝葉写本ロンタルは小刀で刻まれたバリ文字に粉墨を摺り込んだ、一点ものの手写本である。だがオランダ植民地時代の開始とともに、インドネシア各地のロンタルは重要な歴史資料として収集され、オランダの図書館に収蔵された。そして19世紀末から、オランダ式の教育を受けたインドネシアの知識人の多くが、ライデン大学を拠点にロンタルのローマ字転写と翻訳に従事した。プリヨノの著作も、その一つである。さらに注目すべきは、彼がスリ・タンジュン物語の原文の転写と翻訳だけでなく、オランダ語の散文形式の「あらすじ」(5-2項を参照)を著作に含めた点である。つまり、詩歌として言葉のテクスチュアそのものが体感されていたロンタルのテクストは、起承転結のストーリー構成に再編集されたのであった。こうして前世紀初頭の書籍出版文化は、散文形式のスリ・タンジュン物語を生んだ。現在もインターネットで紹介されるスリ・タンジュン物語は、プリヨノがまとめたあらすじが様々に複製されたものである。